親っていうだけで、誰でも聖母になるわけでは無い。
これは、端から見たら親不孝でしかない娘の独り言です。
でも、誰かに伝えたかったから。伝わってほしかったから。
私の母親は、今で言う所謂『毒親』と分類される人です。
生まれた時から私は母の【所有物】で、
好きなように操れる『お人形さん』。
私は、母親の『 理想 』であり『 良い子 』で居なければいなかった。
小さい頃から学ぶことは好きだった。知らないことを知るのが面白くて。でも、算数など数字が出てくると何故かよく理解ができなかった。
幼稚園でたまたま英才教育を受けることになり、そこから母親の期待は上がっていって。小学校のテストで100点以外はいつも怒られた。貴方はケアレスミスが多くてだめなのよ、とあまり褒めてもらえた記憶はない。勉強ができるんだから、頑張らなきゃ、そういつも言われた記憶がある。
小さい頃からアスペルガー症候群を疑っていて本まで買っていたくせに、診断を受けたくないからと連れて行ってくれなかったこと、正直恨めしい。
貴方に私がADHDって診断されたって伝えたとき、なんて言ったっけ?
「あ、やっぱり?お父さんとおばあちゃんにそっくりだもんね」
そう言ったよね。
あの時、今までなんで言ってくれなかったのかと心から思ったよ。
また、普通のサラリーマンの父と専業主婦の母と私の3人家族で公営アパート育ちな私。
確かにアパートだけど、父の会社名を考えればそんなに安月給な訳ないし、自分が社会人になってから昔何気なく見た父の給料明細を思い出すと、比較的収入が多いと言われる私の仕事ですら月の手取りがその金額に辿り着くのはほぼ皆無に等しい。
今思い返せばそこまで生活が厳しい訳でも無かったはずなのに、小さい頃からうちは貧乏なのよと言い聞かされてきた。
それなのに母親が持ってきた別にやりたくもない習い事なら何とか両手で足りるくらいの数はやった。
何故か小学生の頃はわざわざ乗り換えをしてまで、近所でも習える習い事を遠い場所に習いにも行った。
中学生の頃は塾だって通わせてもらった。高校だって公立だし、専門学校だって大学に行くよりも安く済んだ。
だけど、母は機嫌が悪くなるといつも私に
「あんたに今までいくら掛かったのか請求書出してやろうか!?そんなこと言うなら全部返してもらうから!」
と言い放っていた。
好きなものなんて、第一志望だった高校に通えたくらいしか無かったのに。本当なら、大学に行きたかったのに。大学に行けって言う割に学費を出せないかもしれないって言われたから浪人することも諦めて学費の安い専門学校にしたのに。学費は出せないかもしれないのに母親の趣味のグッズや母親が買った通販は大量に買って家に置いてあったし、頻繁に外食もした。洋服だって母親が欲しい時には買ってもらった。それでもうちは貧乏なんだそうだ。
そりゃあクレカは魔法のカードだと思っていれば金はなくなるだろう。
また、私は母親に朝ご飯を作ってもらった記憶がない。いつも朝は母が寝ている上を跨いで学校に通っていた。
「朝ご飯のパンを用意してるのに、食べないお前が悪い!」
と何度も言われたけれど、小学校低学年の子供が自分からそんな習慣つけられるだろうか?
また、私はマーガリンが嫌いなのにいつも用意されていたのはマーガリン入りのロールパンかマーガリンを塗らないといけないただの食パン。そりゃあ食べなくなるわ。
友達関係だって制限されたお陰で学校ではいじめにもあったし、20歳まで携帯にGPSをつけられていて何処か内緒で出かけるとすぐに電話が掛かってきた。
地元を離れることもなかなか許してもらえなくて、強硬手段で実家から車を飛ばしてもすぐには行けない位のの距離にも就職した。これは父親の協力があったから。本当に感謝してる。
うちの母は娘が心配すぎるんだ、そう思っていた。
中学校の先生から「貴方は将来独り暮らしをしたほうがいい」と言われていた意味も分かっていなかった。
高校の先生たちが実家から離れた場所にに就職が決まったと聞いてなんであんなに喜んでくれたのか、その意味も分かっていなかった。
その意味は、ある時突然分かる日が来る。
社会人になって働いていたある日、父がとある病気を発症した上に併発していることがわかった。
普段から上辺だけでも白衣の天使として働いている私にとって、医者が言う言葉たちがどんな意味を持っているのかは痛いくらい伝わってきた。
父は、早くて1年後にはこの世界に居ないかもしれないということ。ただそれだけ。
どうにかして父に親孝行したい、そう思ったけれど母と喧嘩してしまったりして病気発覚後なかなか何もできなくって。
そんなもやもやしていた時、入社した年から付き合っていた彼からプロポーズされた。これは、願ってもないチャンスだと思った。いつか父に花嫁姿を見せたい、それは前から思っていたことだったから。
そして母に結婚したいという報告を電話でしたとき、怒り狂うかと思っていた母は意外に淡々としていて、
「あなたもいい年なんだから、好きにすれば?でも、お母さんも疲れてるからまだ彼氏を連れては来ないでね。冬くらいとかにして」
あれは残暑が厳しい秋の初めの頃の話。
母はそう言っただけ。私が覚えている限りでは。
明日また連絡する、そう言って電話を切った数時間後、スマフォの画面には意味が分からない言葉がひたすらに並んでいた。
読み取れたのは、
私の側から離れるなんて、
絶対に許さないということだけ。
数時間前と言ってることが正反対。
理解ができなかった。
母から反対され、結婚を諦めなきゃいけないのかとも思った。
でも、それだけは嫌だった。
父親には連絡して、父は好きにしろと言ってくれた。それが、唯一の救いだった。
そして強行突破してその年に入籍。
途中母のお陰で父と連絡がつかなくなるハプニングもあったけど、なんとか父から近況も聞きながら母から逃げていました。母からはもうあんな子は娘じゃない!!と散々言われていましたし。
ある時には母の目を掻い潜り、地元まで夫を連れ父に会いに行くこともできました。父の嬉しそうだったあの時の顔は忘れられない。
そして先日、父の状態が悪化し危篤となりました。先生からは、持っても1週間程度じゃないかと。病状を聞いた私は、現実に絶望するしかなかった。
目の前にあるデータ達が、父の現状を物語っていたから。
そんな中、
父の病室で母と私の1年ぶりの感動の再会。
久々に会った母から言われたのは、
私(母親)がどれだけ大変だと思っていたの!?親の許しも得ないで勝手に結婚して!お父さんとあなたのせいでどれだけ大変だったと思ってるの!?
と、自分のことだけ。そして平手打ちも病院のロビーで喰らいました。
他にも患者さんやら面会者だの大勢いる公衆の面前で。
ああ、この人は弱い人なんだなあってその時に思いました。そして、こんな人が母親だったんだなあって絶望もしました。
その次の日、ボイスレコーダーを持って母親と会ったときに録音された会話は理不尽なものでしかありませんでした。
未だに録音を聞くだけで吐き気がします。
談話室で顔をグーで殴られたり、
「お母さんこれ今まで何もできなかったから気持ちだけどとかないの!?○○万円よこせ!」
と言われたりなど色々とありました。
仕事を休んで地元に数日間居たけれど、あの数日は本当に辛かった。
そして、私は父と話して一番選びたくなかった選択肢を選びます。
母親をこの先一生見捨てる。
父の死に目には会わない。
もう、この病室には来ない。
痛みが強く、薬で眠りに着く前の父にこの事を伝えると、苦笑いしながら好きにしろと言ってくれました。
父親は私の決断に対していつも、
「お前の人生、俺が生きる訳じゃないんだから好きにしろ。その代わり責任は自分で取れよ」
そう言ってくれる人でした。
ある意味、私に対する母親の仕打ちを見逃していた罪滅ぼしのつもりでもあったのかもしれません。
母とは色々と最後まで揉めましたが、母が
「悪いけど、葬儀だけは出てよ!それだけは絶対に!」
と言うように父の葬儀だけは世間体もあるので出ろと言ってきました。
その時は連絡をくれと伝え、そのまま私は夫が待つ地元に帰りました。
そして地元に帰ってからある日、母からは
『顔を見たら刺しかねないし、今更娘面されても腹立つだけだから葬儀にも来ないで!』
と父の携帯を使いメッセージが送られてきました。
最後まで一貫性のない人だなと思ってます。
母親が親戚に私のことをひたすら悪く言っているお陰で親戚からも父の状態を聞くこともできなくて、
今の時点で父が生きているのか死んでいるのかすら分かりません。
自分の中で整理もまだついていないけれど、整理を付けるためにもここで綴ってみました。
私は、母からたくさんの愛ももらったかもしれません。でも、その代わりたくさんの暴力やネグレクト、モラハラを受けました。
母からの愛は、いつも母が望むとおりになった時にもらえる『条件付きの愛』でした。
世間一般で言う、『無償の愛』を私は知りません。
親だからと言って子供に何でもしていい訳ではありません。
でも、あの母親は子供が親を見捨てる覚悟を持つ位の、それだけのことを私にしてきました。
母には母なりの理由もあるでしょう。
でも、私をお人形さんにしていいという理由にはなりません。
これを読んだ上でも、私は親不孝な悪い娘なのですか?
何故、モラハラや暴力は世間一般では許されないのに、親だからという理由で許さなければいけないのですか?
子どもたちがこんなに苦しんでいるのはなかなか気づいてもらえない。
そんな世の中でも、希望はあると信じたい。